ヒップホップ第一世代の遅すぎたデビュー作 クリスタル・ジョンソン
ドクター・ドレー、モブ・ディープ、ヘヴィ・D、ピート・ロック&C・L・スムースなどとの仕事で知られる
ヴェテラン女性シンガー・ソングライターの遅すぎた初ソロ作だそうです。
上にあげた4組のミュージシャンをまったく聴いたことがない(!)ヒップホップ門外漢ゆえ、
どれだけエライ人なのかが全然ピンときてないんですけども、
このアルバムはとっても気に入っています。
この人の書く曲には物語がありますね。
浮遊感のあるメロディーと起承転結のあるソングライティングに個性があって、
ちょっとしたフェイクやこぶし回しに、ドラマを宿すことのできる才能の持ち主です。
たゆたうメロディーが官能性を露にするところなど、ゾクリとさせられます。
7歳でピンク・フロイドとレコーディングを経験し、
11歳でミュージカル“Mama, I Want To Sing!” の主役を務めるなど、
幼いころからキャリアを積んでいるだけに、
歌の聞かせどころを心得ているんでしょうね。
デビュー作にして、すでに10年選手なみの貫禄があるというわけです。
クリスタル自身「ヒップホップの第一世代」を自称するとおり、
ヒップホップにR&B、ジャズ、ハウスなど多彩な要素を取り入れたサウンドへの
柔軟な身のこなしをみせるのは、この世代ならではでしょう。
個人的には、マーヴィン・ゲイの“I WANT YOU”を思わせる、
アナログ・シンセのような音色のシンセにぐっときました。
インディ作とはいえ、メアリー・J・ブライジなどのプロデュースで知られるハーブ・ミドルトンや、
ブレイズのジョシュ・ミラン、カイリー・ミノーグからレイ・チャールズまでてがけるディンキー・ビンガム、
リアーナ、アッシャー、ブランディーの仕事で知られるマイク・シティなど
強力なプロデューサーたちがワキを固め、充実の第1作に仕上がりました。
Crystal Johnson "THE DAY BEFORE HEAVEN" Egyptian Fusion Music no number (2011)
2011-08-31 00:00
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阿片に消えたルークトゥン歌手 カムロン・サムブンナーノン
タイのハンク・ウィリアムズと称された、ルークトゥン初のスター歌手カムロン・サムブンナーノン。
ヨーデルまじりのルークトゥンという、それだけ聞くとゲテモノかと思われそうですけど、
50~60年代の初期録音をまとめた編集盤“SAAI ROM CHOIE” には、
陽気なカントリー&ウェスタン調から、田園調バラードに、軽快な演歌系ルークトゥン、
はたまた洒落たジャズソング、都会的なブギウギ調と、
タイ版昭和歌謡と呼ぶにふさわしい、雑食歌謡のオイシイ部分が詰め込まれています。
鼻にかかった声で歌われるアクの強いタイ語の発音は、ルークトゥンらしい臭みがいっぱいで、
唐突に挟まれる鶏の鳴き声など、歌詞を解さない外国人の耳には相当にキテレツ。
初めて聴いた時は思わず「ぎゃはは」と爆笑してしまいましたけど、
何度聴いてもあっけにとられてしまう、ストレンジ歌謡集の一枚ですね。
カムロンは、言論弾圧が当たり前だった軍部独裁政権時代に、
強烈な権力批判と庶民の苦しみを歌ったといわれますが、
その歌からプロテスト的な強度はあまり伝わってきません。
あっけらかんとした歌いぶりは、どこかカリプソニアンとも通じる熱帯性の楽天ぶりを思わせます。
カムロンに大きな影響を受けたカラバオのリーダー、エードは、
<人生の歌>と称されるプレーン・プア・チーウィットの代表的な音楽家となりましたが、
まじめなカラバオの歌とカムロンの歌とでは、その味わいは別物とぼくには思えます。
その証拠が、カムロンのラスト・アルバムとなった
“KHON BA KANCHA” 『ガンチャー狂い』でしょうか。
このアルバムでは、あっけらかんと権力批判をしていた陽性の表情が消え、
人間の弱さやダメさをムキ出しにした悲哀を漂わせています。
ガンチャー(大麻)に溺れる男の物語の歌を歌うカムロンが、
この時すでにアヘン中毒となっていたかどうかは不明ですが、
虚構のはずの歌が現実のものとなり、やがて人知れず表舞台を去るのを暗示していたのです。
Khamron Sumbunnanon "SAAI ROM CHOIE" Krung Thai KTD017
Khamron Sumbunnanon "KHON BA KANCHA" Krung Thai KTD019
2011-08-29 00:00
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ジャマイカ民謡を伝えたミス・ルゥ ルイーズ・ベネット
ギターをじゃかじゃか鳴らすイントロが始まっただけで、思わず顔がほころんでしまう、
ルイーズ・ベネットおばちゃんが歌うジャマイカ民謡。
「リンステッド・マーケット」「ホールド・エム・ジョウ」「ココナッツの木の下で」などの
ジャマイカ民謡を歌ったフォークウェイズ盤“JAMAICAN FOLK SONGS” を、
最近またじっくり聴き直す機会があって、その陽気なメロディーとサビの効いた歌に、
すっかり心和んでしまったのでした。
1919年生まれのルイーズ・ベネットは、ジャマイカの古い民謡や民話を採集して、
1940年代にパトワで書いた詩集を出版する一方、歌手やコメディアンとしても活躍し、
「ミス・ルゥ」の愛称で親しまれた、ジャマイカの文化的アイコンだった人。
イギリスの「ロイヤル・アカデミー・ドラマティック・アート」に入学して演劇を学んだ教養人ながら、
その歌は田舎のおばちゃん丸出しの気取りのないもので、とっても楽しいんです。
ハリー・ベラフォンテが先のフォークウェイズ盤に収められた「デイ・ダー・ライト」を聴いて気に入り、
「デイ・オー」のタイトルで歌って、世界的な空前のヒットを呼んだのは有名な話ですね。
昔、子供たちの読み聞かせにジャマイカの民話を練習していた奥さんに、
ジャマイカの民謡ってどんなの?と訊かれ、
ルイーズの"CHILDRENS’ JAMAICAN SONGS AND GAMES" を聞かせたことがありました。
ところで、なんでジャマイカの民話なんだ?と思って、奥さんが読んでいた本をのぞき見したら、
序文をルイーズ・ベネットが書いていて、びっくりしたこともありましたっけ。
ルイーズ・ベネットは独立前のジャマイカで、おそらく初のレコーディング・アーティストとなった人で、
50年にイギリスのメロディスクで、カリビアン・セレネイダーズをバックに、
「リンステッド・マーケット」と「ボンゴ・マン」の2曲を録音しています。
カリプソの伴奏者をバックに従えたこの2曲は、フォークウェイズ盤と違って、
洗練されたモダンなメントぽいポップ・ソングに仕上がっていました。
この2曲は、オーディブックの『ジャマイカ・ビフォー・スカ』で聴くことができます。
その後もルイーズは、ジャマイカの口頭伝承を海外で積極的に紹介し、
83年にイギリスのアイランドから、自作の詩を朗読したロンドン公演のライヴを出しています。
ざっくばらんな語り口で観客をわかせていて、コメディアンとしての一面を知ることができました。
もっとも言葉のわからないぼくには、内容はさっぱりなんですけども(泣)。
そうそう、このレコードにはリントン・クウェシ・ジョンソンが司会と歌でゲスト参加しているんですが、
リントンがいつもと違って神妙にしていて、ルイーズの存在感の大きさを実感させられます。
ルイーズ・ベネットのフォークウェイズ盤は、
いまではスミソニアン・フォークウェイズのカスタムCD-Rで容易に聴くことができるので、
ぜひ一度聴いてみてください。
“JAMAICAN FOLK SONGS” のCDは再発盤のジャケット・デザインが使われています。
[10インチ] Louise Bennett "JAMAICAN FOLK SONGS" Folkways FP846 (1954)
[10インチ] Louise Bennett "CHILDRENS’ JAMAICAN SONGS AND GAMES" Folkways FC7250 (1957)
V.A. 「ジャマイカ・ビフォー・スカ」 オーディブック AB103
Miss Lou (Louise Bennett) "YES M’ DEAR : LIVE" Sonic Sounds SON0079 (1983)
Louise Bennett "JAMAICAN FOLK SONGS" Folkways FP6846 (1954)
2011-08-27 00:00
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サンバの警察官 カンデイア
生涯を通してアフロ・ルーツのサンバにこだわり続けたカンデイア。
彼の70年のソロ・デビューから75年の最高傑作までの3作が、
リマスターされてリイシューされました。またもジスコベルタスのお仕事です。
ボーナス・トラックなしのストレイト・リイシューが残念ですけど、
15年くらい前にCD化された際は、タイトルやジャケットが変更されていたので、
オリジナル・ジャケットを忠実に復刻してくれたのが嬉しいですね。
上の写真の左側がジスコベルタスが今回復刻したCD、右側が以前のCDです。
サンバがリヴァイバルした70年代に、
もっともアフロ色の濃い伝統サンバを歌っていたのが、カンデイアでした。
すばらしいパルチード・アルトを披露した、
パルチード・エン・シンコの第1・2集も忘れられませんが、
アフロ・ブラジル文化を体現したサンバの詰まった75年のタペカール盤が、
やはりカンデイアの代表作でしょう。
ビリンバウを加えたバイーアのカンドンブレの師匠カマフェウ・ジ・オショーシに捧げた作品ほか、
伝統サンバのセッション、ローダ・ジ・サンバの真髄を、
これでもかとばかりに見せつけてくれます。
ローダ・ジ・サンバをひっくり返し、『サンバ・ジ・ローダ』としたタイトルにも、
サンビスタの心意気を感じさせますね。
今回ひさしぶりにデビュー作とセカンドを聴き直して、
カンデイアが書く曲のメロウな抒情味にもグッときました。
ポルテーラでカンデイアが発表してきたサンバを披露しているんですけど、
漆黒のアフロ成分にとろっとした甘みが滲み、若々しいカンデイアの声とともに、
格別の味わいを醸し出しています。
特にセカンドは、アジムスのジョゼ・ベルトラミのオルガンがいいアクセントとなっていて、
バテリアが炸裂する圧巻のオープニング“Filospfia Do Samba” から、
メロディー・メイカーとしての才が光るラストの“Regresso” まで、一気に聞かせます。
カンデイアは、若い時に一時警察に入り、不幸にも銃弾を受け、
その後遺症で、残り半生を車椅子で送りました。
商業主義へ傾くエスコーラに反発して、15歳から所属していたポルテーラをやめ、
黒人意識の高揚を図るべく新たなエスコーラ、キロンボを75年に立ち上げたのも、
カンデイアがサンバの伝統を護る警察官だったことの表れなのではないでしょうか。
Candeia "CANDEIA" Equipe/Discobertas DB079 (1970)
Candeia "SAMBA DA ANTIGA" Novo Esquema 99814 (1970)
Candeia "SEGUINTE...RAIZ" Equipe/Discobertas DB080 (1971)
Candeia "PHILOSOFIA DO SAMBA" Novo Esquema 99812 (1971)
Candeia "SAMBA DE RODA" Tapecar/Discobertas DB081 (1975)
Candeia "SAMBA DE RODA" Tapecar 99115 (1975)
2011-08-25 00:00
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阿波おどりの季節に お鯉
久保田麻琴さんの「ぞめき」シリーズで、にわかに音楽ファンの注目を集め始めている、阿波おどり。
その昔は、高円寺の阿波おどりと少し関わりもあったんですけど、今ではまったくのご無沙汰。
この前テレビをつけたら、偶然、徳島の阿波おどりのドキュメンタリーをやっていて、
あぁ、今年もそんな季節かと思っていたら、三味線を抱えたお鯉さんが登場したので、びっくり。
お鯉さんは2008年の4月に亡くなっているので、ええっ!と画面に釘付けになったんですけど、
放映されていたのは、亡くなった前年2007年のものでした。
お鯉さんといっても、知らない方がほとんどでしょうけど、
「ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ」の阿波おどりの囃子唄
「よしこの」を日本中に知らしめた人、といったら少しは興味をおぼえてくれるでしょうか。
明治40年4月27日徳島市富田町生まれの元芸妓さん、
お鯉こと多田小餘綾(ただ・こゆるぎ)さんは、徳島の誇る有名人です。
昭和6年「徳島盆踊唄(よしこの)」を日本コロムビアへ吹き込んだのが、ことの始まり。
翌年レコードが発売されると、当時の民謡ブームにのって大ブレイク。
ラジオへの出演依頼が殺到し、お鯉さんは一躍人気者となりました。
そして昭和10年にはポリドールへ「阿波踊り(よしこの)」を吹き込み、
「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らな損々」は日本中の誰もが知ることとなり、
「東の市丸、西のお鯉」として全国に知られるレコード歌手となったのでした。
百寿記念で出された自主制作CD『唄声は時代を超えて』には、
40代後半から99歳の時のお鯉さんの録音が収められていて、その艶やかな美声に驚かされます。
なかでも77歳の時の小唄の数々がすばらしくって、ぼくは大好きなんですけど、
歳月を経て洗い流されたしなやかな節回しと、自然体の唄いぶりに聴きほれてしまいます。
伴奏にピアノやギターが加わる録音もあって、その柔軟な音楽性にも感心させられました。
80歳記念で出された『阿波の心』、91歳記念の『想い出の唄』ともに、
とてもそのお歳とは信じがたい歌声で、
清らかなたたずまいと気取らないやわらかさに魅せられます。
忘れられないのは、
『唄声は時代を超えて』を注文した時のこと。
「ありが度うございました」と
丁寧な筆致で書かれたポストカードをいただき、
これにはいたく感激してしまいました。
百歳にしてほぼ毎日、徳島の自宅で
唄と三味線の指導にあたるという現役バリバリの活躍ぶりで、
いつかお鯉さんのライヴを生で観たいと願っていたのですが、
それは叶わぬこととなりました。
お鯉さんは亡くなる4月6日の前日までとてもお元気で、
家族と一緒にお花見に出かけ、
讃岐のうどんを食べに香川県まで足を延ばし、
帰宅後お弟子さんに稽古をつけた後、
食事時にビールを飲み、色紙を書いて就寝し、
翌朝お亡くなりになっていたそうです。
トライバル・グルーヴとして阿波おどりが見直されるなか、
ぼくはお鯉さんの歌声を、阿波おどりの季節に思い起こします。
お鯉 「唄声は時代を超えて」 レーベル名なし 番号なし (2007)
お鯉 「阿波の心」 レーベル名なし 番号なし
お鯉 「想い出の唄」 レーベル名なし 番号なし
2011-08-23 00:00
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日本の夏、ハワイアンの夏 バーニー・アイザックス
ビア・ガーデンやプール・サイドに流れる、甘ったるいスティール・ギターの調べ。
マヒ・ビーマーやギャビー・パヒヌイが知られるようになってからは、
そんな凡庸な観光ハワイアンなど、まともに語られることもなくなりましたけど、
コマーシャルとバカにされるハワイアンでも、お気に入りのアルバムがあります。
ワイキキのお土産やで売ってる絵葉書を並べた、いかにもノベルティなこのジャケット、
サブ・タイトルもずばり「バックグラウンド・ミュージック」と、まさしく観光客ネライのつくり。
裏ジャケットもハワイの観光名所の写真と説明が並ぶだけで、
演奏者の名前はジャケットのどこにも書かれていません。
高校2年のサマー・スクールでオアフ島に滞在した75年の夏、
典型的なハワイアンも買っておこうと思い、何枚かみつくろったなかで、
ずっと手放さずに残ったのが、このアルバムでした。
1ドル99セントだったか、たしかそんなタダ同然みたいな値段で売っていたレコードなので、
まったく期待もせずに買ったことを覚えています。
ところが中身は、スティール・ギター、ヴィブラフォン、ウクレレ、ベースで、
チャールズ・エドワード・キング、ジョン・アルメイダ、レナ・マシャードなどの
古いハワイアン・スタンダードを淡々と演奏した、とびきりの内容のアルバムだったのです。
のちにわかったことですけど、このアルバムを演奏しているのは、
人気ラジオ番組「ハワイ・コールズ」で演奏を務めた名スティール・ギター奏者の
バーニー・アイザックス率いるワイキキ・セレネーダーズでした。
このアルバムはバーニーが音楽監督を務めていたワイキキ・レコードの、
50年代の代表作でもあったそうです。
バーニーは、名門ロイヤル・ハワイアン・ホテルのバンドリーダーを務めた、
父アーヴィン・アイザックスの長男で、次男は名ベーシストのノーマン、
三男はスラック・キー・ギタリストのアッタという、音楽一家でした。
驚いたのは、90年代に入ってからこのアルバムがCD化されたことです。
50年代のLPが75年でも買えたほどのロング・セラー・アルバムだったのだから、
もちろんCD化されても不思議はないわけですが、
それならバーニ・アイザックスの名前くらい、ちゃんと載せればいいものを、
LPジャケットの表裏を複製しただけで、解説の一文もなしの手抜きCDなのでした。
その後バーニーは、スラック・キー・ギタリストのジョージ・クオと
素晴らしいデュオ・アルバムを、95年になってリリースします。
スラック・キー・ギターのレーベル、ダンシング・キャットの数あるカタログの中でも、
これは屈指の名盤といえる内容でした。
バーニーはエレクトリックのラップ・スティールではなく、
アクースティックのリゾネイト・ギターを演奏していて、
生音の優しい響きがとびっきりスウィートなアルバムに仕上がっていました。
バーニーがアクースティックで録音したのは、なんとこれが初だったとのことです。
バーニーはこのアルバムを出した翌年96年に亡くなってしまいましたが、
最期に円熟の極みともいえる名作を残してくれたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
Waikiki Serenaders "HAWAII INSTRUMENTALLY YOURS" Waikiki WCD306
Barney Isaacs & George Kuo "HAWAIIAN TOUCH" Dancing Cat 08022-38026-2 (1995)
2011-08-21 00:00
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エトンの森から サリィ・ニョロ
サリィ・ニョロって、すごいな。
ザップ・ママを抜けてからの彼女のソロ活動は、ブレがないというか、ゆるぎがないというか、
自分のやるべきことをわかっている人の確かさを感じさせます。
クオリティの高い作品を作り続ける一方で、
母国カメルーンの若手アーティストの育成にも力を入れていて、
サリィぐらい足下確かに活動しているアフリカのアーティストも、数少ないんじゃないでしょうか。
サリィが一貫してやっているのは、カメルーン南部の伝統音楽ビクツィをベースに、
ピグミーのコーラスなど彼女のルーツに繋がる、
さまざまな伝統の要素を織り上げたポップスを作り出すことですね。
彼女のアルバムは、アンサンブルやアレンジのすみずみまで
繊細な神経が行き届いていて、いつも感心させられます。
凡庸なアイディアの借用や安易なミクスチャーなど、ぜったい出てこないですもんね。
よく練られたプロダクションながら、がっちり作りこんだような窮屈さもなく、
しなやかなサウンドを生み出すところに、サリィの柔軟な才能が示されています。
新作は、母国カメルーンのヤウンデにサリィが設立したスタジオや現在暮らしているノルマンディー、
さらにパリ、ブリュッセルでレコーディングを行っています。
メジャーへ移籍しても、サリィのスタンスは以前と変わりなく、
むしろヒット性とは無縁なアーティストなのに、ソニーがよく契約したものだと思いました。
今回新たな試みとして、子供時代にカメルーン南部のエトンの森でよく聴いたという、
ベティ人の木琴メンドザングを取り上げているところが注目されます。
そのメンドザングの演奏に始まり、アコーディオン、サックスなどが加わって
ビクツィのダンス・チューンへとなだれ込んでいく“Owé” が、アルバム最大のハイライトでしょう。
ポップなレゲエのサウンドで、ピグミーの笛ヒンデウフーをさりげなく聞かせたり、
小型のハープとおぼしき素朴な響きの民俗楽器と女声コーラスの反復による曲で、
サウンド・エフェクトをカクシ味に効かせるデリケイトな手さばきも、さすがです。
アルバムのラストをピグミーのコーラスで締め括ったところも、サリィらしくっていなあ。
カメルーン南部ギネア湾沿岸のリゾート地クリビにほど近い、
密林に暮らすロベのピグミーを取材したようです。
最後に蛇足ぽい話になりますけど、おやと思ったのが、
最近プロジェクトで共演しているサックス奏者デヴィッド・マレイ作曲の“Stolen By Night”。
イントロから曲全体のムードまで、ダン・ヒックスの“I Scare Myself” そっくりなんですね、これが。
まさかサリィがダン・ヒックスの曲を知ってるとは思えませんが、
あまりにも似ているので、何度聴いても不思議な空耳感が残ります。
Sally Nyolo "LA NUIT À FÉBÉ" RCA Victor/Sony Music 88697915062 (2011)
2011-08-19 00:00
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フランス白人が興したセネガル初のレコード会社 ンダールディスク
前回のエントリで、イドリッサ・ディオップのソロ・デビュー作
“DIOUBO” のレコード会社について触れなかったので、今日はそのお話を。
“DIOUBO” を出したのは、
当時のセネガルでゆいいつのレコード会社、ンダールディスクです。
ンダールディスクは、ルイ・フルムンというフランス白人が興した会社で、
ダカールにあったルイのレコード・ショップ、ラジオ・アフリケンヌで売られていました。
ンダールディスクは62年から相当数のSPを出していたようですが、
そのディスコグラフィはわかっていません。よく知られているのはEPとLPで、
EPは67年から74年までの間に26枚、LPは64年から76年までの間に15枚出ています。
イドリッサ・ディオップ(アルバム名義はイディ・ディオップ)の“DIOUBO” は、
33-15というレコード番号からもわかるとおり、ンダールディスクのラスト・アルバムでした。
ディスコグラフィから想像するに、70年代末には活動を終えていたのでしょう。
ンダールディスクは、スター・バンドやラバ・ソッセなど、
70年代のセネガルで人気のアーティストやバンドのほか、
「コラの王」と称されたスンジュール・シソコや、
ハラムを弾くアマドゥ・ンジャイェ・サンバなどグリオのレコードも残しています。
イドリッサがわずか19歳でソロ・アルバムを制作できたのも、
イドリッサがメンバーだったリオ・バンド・ド・ダカールが、
ンダールディスクで録音していたキャリアがあったからでしょう。
リオ・バンド・ド・ダカールは、十代半ばのイドリッサが
友人のイブラヒマ・ムバイェたちと65年に結成したティーンエイジャーのバンドで、
2枚のEP(45-18, 45-19)が残されています。
セネガル独立後まもなく、ダカールでレコード会社を興した
白人のフランス人ルイ・フルムンとは、どんな人物だったのでしょう。
興味をそそられます。
[EP] Laba Sosseh & Super Star De Dakar "La Sitiera - El Loco" N'Dardisc 45-08 (1967)
[EP] Dexter Johnson & Super Star Dakar "Mini Compay - La Bicyletta - Seul" N'Dardisc 45-11 (1968)
[EP] Super Star De Dakar "Maria Helena - Yo No Quiero Lios" N'Dardisc 45-13 (1968)
[EP] Laba Sosseh Y Su Conjunto "Seyni - Que Se Funan" N'Dardisc 45-15 (1969)
2011-08-17 00:00
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セネガリーズ・ポップ揺籃期を辿って イドリッサ・ディオップ
ンバラ誕生前夜のセネガルで、
新しいポピュラー音楽を生み出さんと試行錯誤していたバンド、サハラの録音を中心に、
メンバーのソロ・アルバムや未発表録音などから編集したリイシュー作です。
これまでセネガルのポップス史で不明だった部分がクリアになったり、
ンバラ誕生の道筋が新たにわかるなど発見の多いアルバムで、
研究家には見逃せない一枚となっているんですね、これが。
アルバム冒頭に収録された3曲は、のちにサヘルの歌手となる
イドリッサ・ディオップのデビュー作“DIOUBO” からの選曲。
アルバムの名義はイディ・ディオップとなっています。
まだ19歳だったイドリッサが69年に残した録音で、
いずれもラテン・サウンド全盛の当時の流行を反映した、アフロ・キューバン色の濃い曲です。
ベルボトムのパンタロンできめたイドリッサが写る、若々しくヒップなジャケットが印象的で、
シラール・プロダクションからリリースされたコンピレ
“AFRO LATIN VIA DAKAR” のジャケットにも、
右上半分にどかんとコラージュされました。
http://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2011-05-19
あのコンピレにはタイトル曲の“Dioubo” が収録されていましたが、
このリイシューCDではオープニングを飾っています。
そして続く4曲は、イドリッサが71年に参加したバンド、
サヘルの75年の傑作“BAMBA” からの選曲で、
前半2曲は未発表録音という貴重なもの。
聞きものはラリー・ハーロウのカヴァー“Caridad” で、
69年のソロ・アルバムのゆるいセネガリーズ・ラテン・サウンドとは大違いの
エッジの立ったハード・ドライヴィングなサルサとなっています。
これを聴いたハーロウが絶賛したというのも、うなずけますね。
サヘルのバンド・リーダー、シェイク・ティジャヌ・タルのオルガン・プレイにも耳を奪われます。
次の2曲はオルケストル・シェイク・タル&イドリッサ・ディオップ名義の75年作からの選曲。
バンドの実体はサヘルなのに、名義を変えてリリースされたのは、
イブラヒマ・カッセがプロデュースを務めたからだということが、
ライナーの解説でようやくわかりました。
このアルバムは、のちにソナフリックからスター・バンドの第6集として再発されていて、
スター・バンドという名義が長年ナゾだったのですが、その理由も要するに、
イブラヒマ・カッセがプロデュースしたバンドは、全部スター・バンドを名乗らせてたってたわけですね。
だからアルバムごと、メンバーのまったく異なるスター・バンドのLPが乱立し、
混乱が生じたのでした。
この録音ではラテン色を排し、
シェイク・タルのオルガンとサバールを結びつける試みを行っています。
ウォロフの太鼓サバールを核とした伝統音楽をもとに、
新たなポピュラー音楽を生み出そうと試みていたことが、その録音からよく伝わってきます。
ただし試行錯誤中のサウンドという感じは否めず、まだンバラの萌芽は感じられません。
驚くのはラスト3曲に収められた76年の未発表録音です。
もはやラテンやサルサの香りは消し飛び、タマが大活躍するンバラになっているんですね。
これまでンバラの出発点は、ユッスー・ンドゥールとエトワール・ド・ダカールの79年録音
“Xalis” と見なされてきましたが、これはそれより3年も早いのだからオドロキです。
スター・ナンバー・ワン・ド・ダカールの録音でも、
ンバラとはっきりわかる演奏は78年頃にならないと聞けないので、
サヘルによるこの76年録音は、ンバラの完成型を聞けるもっとも早い時期のものといえます。
ンバラの名付け親はユッスーなので、当時はまだンバラとよばれていなかったにせよ、
ンバラの出発点は70年代末ではなく、70年代半ばと修正する必要がありそうですね。
ライナーのイドリッサのインタビューを読むと、
サヘルがセネガルのポップス・シーンに与えた影響の大きさを強調していて、
メンバーの一人であったことを誇りに思うと語っています。
イドリッサは、自分たちがンバラを発明したといった主張はしておらず、
ユッスーがセネガリーズ・ポップのレベルを引き上げたと素直に称賛していることからも、
ンバラは、特定のミュージシャンやバンドが生み出したのではなく、
ダカールのミュージシャンたちの共同作業によって生み出されたと理解するのが、
やはり正しいようです。
Idrissa Diop & Cheikh Tidiane Tall "DIAMONOYE TIOPITÉ : L’ÉPOQUE DE L’ÉVOLUTION" Teranga Beat TBCD013
2011-08-15 00:00
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節電の夏に レニー・ヒバート
節電のこの夏は、BGMも様変わり。
去年まで夏の定番だった、エアコンの効いた部屋向きのアルバムは封印して、
団扇やかき氷と相性のいい音楽は何かないかと、あれこれ探してみました。
あづー、と熱気でぼんやりとした頭で、いろいろ試してみたところ、
うだるような酷暑の午後には、スカが合いますね。
スカといっても、リヴァイバル以降のスカじゃなくって、
スタジオ・ワンのヴィンテージ・スカですよ。
ざくざくとした骨太のリズムは、だらだら流れる汗を気化させ、
火照った肌の表面温度を、ほんの少し下げてくれるような気がします。
なかでも、レニー・ヒバートのクールなヴィブラフォンをフィーチャーしたこのアルバムは、
ジャジーなスカ名作としてお気に入りの1枚でしたけど、
冷房なしの真夏のBGMに、これほどハマるとは思いもよりませんでした。
マーティン・デニーのエキゾ・ムードあふれる“Soul Shack”、
マンボを取り入れた“Twilight Zone”、ナイヤビンギのドラムが加わる“Nature Boy”、
まるでノーザン・ソウルな“Lights”、ジミー・スミスのようなオルガン・ジャズの“Peaches”と、
がっしりとしたリズム・セクションをバックに奏でる、
トロピカル・フレイヴァーの軽やかなメロディーが、天国へ連れて行ってくれます。
レニー・ヒバートは、スカタライツのメンバーの多くを輩出した、
不良更正施設兼音楽専門学校アルファ・ボーイズ・スクールの先生だった人。
クレジットはありませんけれど、本作でプレイしているのはアルファ時代の元教え子たち、
オルガンのジャッキー・ミットーや、トロンボーンのドン・ドラモンドでしょう。
ベランダの日陰で足を投げ出してぐったりしてる犬と同じ寝姿になりながら、
レニー・ヒバートを聴く節電の夏なのでした。
Lennie Hibbert "CREATION" Studio One SOCD0015 (1969)
2011-08-13 00:00
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お神楽富士 シキル・アインデ・バリスター
う~ん、感慨ひとしおです。
シキル・アインデ・バリスターのデビュー作がついにCD化されました。
http://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2010-06-25
シキル・アインデ・バリスターのデビュー作は、遠藤斗志也さんのディスコグラフィでも
レコード番号・曲目ともに不明となっていた幻のアルバムで、
オリジナルのアフリカン・ソングス盤は、いまだ写真すらお目にかかったことがありません。
そんなアルバムだけに、“VOL.1” “Record in 1969” という表記に、
思わずウナってしまいました。
それに、どうです、CDジャケのシキルの顔が若いことといったら!
少年の面影を残した、こんな幼い顔立ちのシキルというのも、初めて見ました。
シキルは1948年生まれだから、1969年といったら、まだハタチそこそこ。
67年から軍隊に入隊していたので、軍隊生活かたわらのアルバム・デビューだったのです。
いわばフジの出発点といえる歴史的なアルバムなわけですが、
そのサウンドは思いのほか、サカラ色の濃いものとなっています。
伴奏に1弦フィドルのゴジェこそ使われていませんが、ゆったりとしたテンポで、
平面太鼓のトーキング・ドラムのサカラとシェケレが
ひっかかりのあるギクシャクしたリズムを叩き出すサウンドは、
サカラと非常に近いものを感じさせます。
シキルは10歳から、断食明けの目覚まし音楽ウェレを歌い、
ウェレの数々のコンペティションを勝ち抜いてきた歌手なので、
同じく目覚まし音楽をルーツとするサカラに似るのも道理だったのでしょうね。
また、お父さんがイバダンの伝統音楽の歌手で、サカラも歌っていたということから、
シキルのルーツにサカラがあることは間違いありません。
サカラと違う点といえば、当時のアパラで流行していた、
大型親指ピアノのアギディボが入っているところでしょうか。
シキルが10歳でウェレのグループに参加したときも、アギディボのプレイヤーだったといいます。
フジがのちにパーカッション・アンサンブルを強化し、テンポを早めていったところも
アパラの影響で、フジはサカラとアパラのミクスチャーだったともいえそうです。
そしてなによりフジを特徴づけたのは、テンションを高めたヴォーカルでしたが、
さすがにデビュー作での歌いぶりは、まだのちの凄みはなく穏やかなもの。
歌声は若々しく、子供時代からウェレを歌って鍛えてきただけに、
ハタチそこそこの青年らしからぬ、練れたこぶし回しを聞かせます。
アルバムの出だしでびっくりさせられるのは、
いきなりお神楽のような笛が、ぴーひゃら鳴らされること。
う~ん、やっぱシキルは日本びいきだね、と美しい誤解をしたくなっちゃいます。
アルバム最後の6曲目のイントロでも飛び出す、
「お神楽富士」と茶化したくなるこのサウンドは、日本人の心によく馴染みます。
Alhaji Sikiru Ayinde & His Fuji Group "VOL.1 : MO JUBA AGBA" TYC LPAS8002 (1969)
2011-08-11 00:00
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知られざるマリ・K7の名作
前回のジャガワラ・サリで書きそびれたことを。
ワスル音楽が聴けなくなってしまったといっても、
欧米の会社がCDを配給しなくなっただけのことで、
現地マリでは、今もカセットでリリースされています。
そして、そのうちの一部がCDでも出ていて、
それがジャガワラ・サリの“WASSOLOU SIRA” だったんですね。
リリース元は、フランス人フィリップ・ベルティエがマリで興したカセット会社マリ・K7。
フランスのリヨンでパンクのレコード店オーナーをしていたフィリップ・ベルティエが、
85年にバマコへ移住して興した、マリ国内唯一のカセット会社で、
フィリップは88年にマリ初のマルチ・トラックを持つレコーディング・スタジオ、
ボゴラン・スタジオも設立しています。
アリ・ファルカ・トゥーレやウム・サンガレなど、
フィリップが手がけたアーティストの成功によってマリ・K7は一躍有名になり、
フランスのコバルト・レーベルを通じ、世界へ向けてリリースしていましたが、
コバルトが撤退したあとは、アメリカのシックス・ディグリーズを通じて、
イサ・バガヨゴを配給したりしていました。
マリ・K7が欧米のレーベルを通じてリリースしているのはごく一部の作品で、
カタログのほとんどは、マリ国内向けにカセットでリリースしています。
そのうちの一部はCDでも出ているんですけど、マリ・K7盤CDは極めて入手困難。
なんせ、家庭用のインクジェット・プリンターで印刷した粗末なインレイに、
ディスクはCD-Rというハンドメイド商品なので、
これじゃ普通の輸入業者は、商品として扱わないでしょうねえ。
ぱっと見、海賊盤かと思うような粗末な作りですけど、
ペラ紙のインナーには、正規盤を示すシールが貼ってあります。
見てくれこそオンボロなCDですけれど、
マルチ・トラックのボゴラン・スタジオで録音された作品なのでクオリティは高く、
コバルトの配給からもれた作品の中にも、ジェネバ・トラオレ、バトマ・ジャロ、
クンバ・シディベ、ネバ・ソロの傑作が目白押しです。
といっても、マリ・K7の作品すべてが高品質というわけではなく、
現地スタッフが制作したチープな作品もあるので、
目玉はやはり上記4作のように、ボゴラン・スタジオの専属フランス人エンジニア、
イヴ・ウェルネルが関わったアルバムですね。
こうした知られざるマリ・K7の名作を、
どこかディストリビュートしてくれる会社は現れないものでしょうか。
Djénéba Traoré "YAYOROBA" Mali K7 no number (1995)
Batoma Diallo "BATOMA DIALLO" Mali K7 no number (1998)
Coumba Sidibe "MANSA" Mali K7 no number (2000)
Neba Solo "CAN 2002" Mali K7 no number (2001)
2011-08-09 00:00
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カマレ・ンゴニのリズムに揺れて ジャガワラ・サリ
マリのワスル音楽が脚光を浴びたのは、もうひと昔前のこと。
21世紀に入ると、ワスル・サウンドの新作はほとんど届かなくなってしまいました。
いかにもローカルな味わいの、ひなびたサウンドが大好きだったんですけどねえ。
90年代初めの民主化運動に連動して、ワスルという一地方の音楽が、
マリで全国区的な人気を呼び、世界にも紹介されるようになったんでした。
ただし、華やかなマンデ・ポップとは大違いの、滋味あふれるサウンドなので、
海外ではあまりお客さんがつかなかったのかもしれません。
ワスル出身の歌手で今も活躍しているのは、大スターとなったウム・サンガレぐらいのもの。
ブラッシュ・アップしたサウンドで、インタナショナルな成功をつかみましたけど、
そのサウンドにローカルな味わいはなくなってしまいました。
かつてワスル音楽を熱心にディストリビュートしていたフランスのコバルト・レーベルが
アフリカ音楽から撤退してしまってからは、他にワスル音楽を扱う欧米のレーベルも現れず、
ここ十年近く、すっかり縁遠くなってしまいました。
それだけに、ひさしぶりに聴いたジャガワラ・サリの4作目を数える04年のアルバムには、
目の覚めるような思いがしました。
伝統的なカマレ・ンゴニのアクースティックなまろやかなリズムにのって、
確かな歌唱力で聞かせるジャガワラのハリのある声が、もー、最高なんです。
二人の女声コーラスのお囃子も、とってもいい感じ。
田舎の風景が思い浮かぶそののどかなサウンドは、
日本人の心のふるさとと、うっかり言っちゃいそうです。
まるで日本民謡を聴いているような親しみが持てますね。
マリ盤CDが入手困難なため、7年も前の旧作を今頃知ったのはトホホですけど、
ジャガワラの99年の前作“DAGA KOLON” が素晴らしかっただけに、
さらにグレイドアップした次作に出会えたのは、嬉しかったですねえ。
このアルバムにはジャガワラの夫で、カマレ・ンゴニ奏者のヨロ・ジャロも参加してます。
ヨロ・ジャロを聞けるCDでは、ブグニ村に数年暮らしたアメリカ人が現地カセットをディスク化した
“PEKOS/YORO DIALLO” なんてのもありましたっけ。
周囲のざわめきも聞こえるラフなフィールド録音で、
マイクのハウリング音もしょっちゅう入るという、ヒドいシロモノでしたけど、
がらがら声で歌われるパワフルなカマレ・ンゴニは圧巻でした。
ジャガワラ・サリのアルバムは、そんな粗悪なヨロ・ジャロのカセットとは違って、
最新鋭設備を備えたバマコのボゴラン・スタジオで録音されています。
フランス人エンジニア、イヴ・ウェルネルの名がクレジットされているので、内容は保証済。
イヴ・ウェルネルは、イサ・バガヨゴ、ラマタ・ジャキテはじめ数々のコバルトの名作で、
そのサウンドづくりに重要な役割を果たしてきた、
ボゴラン・スタジオ専属のミュージシャン兼エンジニア。
イヴは生音アンサンブルを損なわないプログラミング処理に才のある人ですが、
このアルバムでは打ち込みを使わず、カマレ・ンゴニ、ンゴニ、エレキ・ギターの弦に、
ジェンベ、タマ、カリニャンなどの打楽器をバランスよく絡ませた手さばきをみせています。
ワスル音楽を知り尽くし、その魅力の引き出し方をよく心得た仕事ぶりといえますね。
Djagawara Saly "WASSOLOU SIRA" Mali K7 no number (2004)
Djagbawara Sali "DAGA KOLON" Mali K7 no number (1999)
Pekos and Yoro Diallo "PEKOS/YORO DIALLO" Yaala Yaala YY001
2011-08-07 00:00
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デビュー・シングル×3+1 マラヴォワ
マラヴォワの69年のデビュー作はずいぶん昔に手に入れ、
マニアもその存在を知らない幻の逸品と、密かに大切にしてたんですけれど、
2006年にフレモオ・エ・アソシエがCD化して、世間に知られるようになりました。
http://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2009-10-10
フレモオ・エ・アソシエのCDでびっくりしたのは、
マラヴォワのデビュー録音は、69年の2度のセッションで16曲が残され、
LPに10曲が収録され、残り6曲がシングル盤3枚でリリースされていたという事実でした。
LP未収録のシングルが3枚もあったとは、う~む、マニア道は深い!なぞと思ったのですが、
なんという幸運か、この3枚がまとまって見つかっちゃいました。
あらためてこのデビュー録音(ちなみにシングル曲はすべてCDに収録されています)を
じっくり聴き直してみると、すでにマラヴォワ・サウンドが完成されているとはいえ、
演奏の表情は後年のマラヴォワの円熟したエレガントさとは別物で、
若く情熱にあふれたミュージシャンシップがぎらぎらしているのを感じます。
たとえば、永遠の名作“JOU OUVE” でファンには耳タコの“Albè” の初演が、
シングルに“Non Pas Fait Ça Albert” と題されて収録されていますが、
その野性味あふれる表情は、“JOU OUVE” ヴァージョンとはまったく異なるものです。
誰もやったことのない自分たちのビギンを創り出そうとしていた、
マノ・セゼールやポロ・ロジーヌの熱い思いが、びんびんと伝わってくるようですね。
ちなみに、フレモオ・エ・アソシエ盤にはボーナス・トラックとして、
デビュー・セッション翌年の70年録音のシングル盤2曲が収録されています。
このシングルは持っていませんが、続き番号のシングルを持っています。
その昔、このヒット・パレード盤シングルを発見した時、
マラヴォワの初シングルかと色めき立ちましたけど、さらにその前があったというわけです。
[EP] Mano et La Formation Malavoi "Nous Peu Pas Kimbé - Paroles Peu Pas Soulagé Moin" Célini RCG5024 (1969)
[EP] Mano et La Formation Malavoi "Jojo - Couté Biguine La" Célini RCG5025 (1969)
[EP] Mano et La Formation Malavoi "Non Pas Fait Ça Albert - Coupé Canne" Célini RCG5026 (1969)
[EP] Ensemble Malavoi "En Lè Mon’La" Hit Parade GR108 (1970)
2011-08-05 00:00
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フランスの分断統治を越えて ジョセリーヌ・ベロアール
この夏は思いもよらず、ズークがやってきてます。
昔の典型的なズーク・サウンドも懐かしくなって、
ジョセリーヌ・ベロアールの“SIWO” に手が伸びました。
カッサヴ関係のズーク・アルバムというと、今ではほとんど聞き返すこともありませんが、
86年のこのアルバムだけは、タニヤ・サン=ヴァルの“MI” とともに、
夏がやってくると浴びるように聴きたくなります。
ズーク大爆発のきっかけが、
84年の大ヒット「ズークは俺たちのクスリさ」であったことは有名ですね。
しかし、この曲が収録されたジャコブ・デュヴァリューとジョルジュ・デシムスのアルバムを
当時聴いてもそれほどの爆発力は感じられず、
観客の反応が熱いカッサヴのゼニットでのライヴ盤で、
ようやくなるほどなと感じたのが正直なところでした。
カッサヴのライヴ盤以上に、ズークの大爆発をまざまざと実感させられたのが、
カッサヴ紅一点のシンガー、ジョセリーヌ・ベロアールのソロ・アルバムです。
タイトル曲のDX7を前面に打ち出した、ギンギンのデジタル・サウンドにも圧倒されましたけど、
このアルバム全体に漲っている高揚感は、ただごとではありませんでした。
単なるパーティ・ミュージックのアッパーさといったものとは異質の、
なにか解放された魂が爆発しているかのような高揚感が、びんびんと伝わってくるんですね。
それは例えるなら、植民地が解放され、独立にわきあがる国民の熱狂にも近い感覚です。
その高揚感の秘密が何なのか、当時はわかりませんでしたが、ずいぶんあとになってわかりました。
ズークは、フレンチ・カリブ出身のスタジオ・ミュージシャンたちが、
パリのスタジオで生み出した音楽と説明されていましたが、
そこにはもう少し複雑な事情があったんですね。
フランスは植民地時代にマルチニックとグアドループを分断統治し、
海外県となってからも、両島の文化はくっきりと分断されていたのだそうです。
同じ根っこを持ちながらも、共に出会うことのなかった
マルチニックとグアドループの移民ミュージシャンがパリで出会い、
協力してズークを生み出したというところに、この音楽の意義があったんですね。
たとえばカッサヴの二枚看板のシンガー、ジャン=フィリップ・マルテリーはマルチニック出身で、
パトリック・サン=テロワはグアドループ出身。二人はそれぞれの島の音楽を取り入れ、
マルテリーはシューヴァル・ブワを、パトリックはグウォ・カをカッサヴに持ち込んだのだそうです。
「ズークは俺たちのクスリさ」のヒットには、そんな文化的な背景が秘められていたんですね。
ぼくがジョセリーヌの“SIWO” の高揚感に、独立の熱狂を感じ取ったのも、
あながちハズレではなかったわけです。
ジョセリーヌの伸びやかな歌声と、コーラスの男女たちが放つまぶしいまでの歌声。
プログラミングされたサウンドが、開放感いっぱいの歓喜を輝かせる感動は、
四半世紀をすぎてもなお、まったく衰えることはありません。
うん、やっぱり“SIWO” は、ズークの頂点をとらえた傑作ですね。
すべてがデジタル一辺倒のサウンドで塗り固められているわけでもなく、
アルバム冒頭、カリブの風が吹き抜けるようなアコーディオンの調べから始まるってところも、
個人的好感度の高かったポイントでした。
ジョセリーヌの歌声を聴いていると、炎天下の毎日に負けないエネルギーがもらえます。
Jocelyne Beroard "SIWO" GD Productions GDC36 (1986)
2011-08-03 00:00
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お悔やみ カンテ・マンフィーラ
7月20日、サリフ・ケイタの盟友として知られるギネアの名ギタリスト、
カンテ・マンフィーラがパリの病院で亡くなられたそうです。享年65。
すでに母国ギネアのコナクリに埋葬されたとの報が届きました。
カンテ・マンフィーラは1946年、ギネア東部の町カンカンにほど近い、
ファラバナーという村の鍛冶屋の家系に生まれました。
グリオ同様に楽器を操る鍛冶屋の生まれのため、幼い頃からバラフォンとギターを演奏し、
14歳の時に親戚が暮らすアビジャンへ居を移し、本格的にプロ活動をスタートさせています。
当時のEP盤に若き日のマンフィーラの姿を見ることができます。
http://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2011-04-03
70年、父親の死を契機にカンカンへ帰郷し、
72年にバマコへ渡ってアンバサドゥールへ加わり、
のちに合流するサリフ・ケイタと共に活動するようになって以降の活躍は、
アフリカ音楽ファンには説明の必要もありませんね。
名曲『マンジュー』のソロをはじめ、マンフィーラのアタックの強いピッキングが
繰り出すきらびやかなフレーズは、ぼくの頭からずっと離れずにいます。
マンディング・スタイルのギターを確立したマンフィーラの数々のギターの名演は、
今後もアフリカ音楽ファンの記憶から失われることは、けっしてないでしょう。
最近は活動の様子を聞かないなと思っていたら、長く病床にあったそうです。
2005年にマリのアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領から勲章を授与されたのは、
晩年のマンフィーラにとってさぞ名誉なことだったでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
Kante Manfila "DINIYA" Disques Esperance CD8467 (1990)
2011-08-01 00:00
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