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かくも短き独立の歓喜 テタ・ランド

Teta Lando.jpg

独立戦争から内戦と、戦乱に翻弄されたアンゴラの70~80年代に、
国内外のアンゴラ人からもっとも愛された歌手が、テタ・ランドでした。

アルベルト・テタ・ランドは、アンゴラ北部、コンゴ民主共和国の国境に接するザイーレ州、
ンバンザ・コンゴの裕福な大地主一家のもと、48年に生まれました。
一家には32人もの子供がいたそうです。
ちなみに、10年にテタ・ランドに捧げたアルバム“LETRA CHORADA” をリリースした
テタ・ラグリマスは、テタの8歳年下の弟です。

Teta Lágrimas  Letra chorada.jpg

テタが13歳の時、父親が暗殺され、一家はルアンダへの避難を余儀なくされます。
愛国者だった父親は、北部のコンゴ人を主体とした、反共を掲げるアンゴラ人民同盟 UPA
(のちのアンゴラ国民解放戦線 FNLA の前身)の支援者で、植民地政府に睨まれていたのでした。
息子の行く末を心配した母親は、15歳のテタをポルトガルへ留学させます。
テタは、リスボンでボンガ、リリ・チウンバ、マリオ・ガマほか、
多くのアンゴラの音楽家たちと出会って触発され、プロの音楽家を目指しました。

64年に初めてキンブンド語で作曲し、65・66年頃に作曲した“Kinguibanza” がヒットし、
一躍テタ・ランドの名は、アンゴラでも知られるようになります。
68年にアンゴラへ帰国すると、数多くのバンドがテタを迎え入れようと競い合い、
結局、テタの友人だった打楽器奏者でダンサーの
ジョゼー・マッサノ・ジュニオルが在籍していたアフリカ・ショウに参加します。

Africa Show.jpg

アフリカ・ショウは、アンゴラでオルガンを初めて導入したバンドで、
内戦となる75年まで、アンゴラのトップ・バントとして活躍しました。
アフリカ・ショウの昭和歌謡を思わせる演歌調の哀愁漂うメロディや、
ムード・コーラスふうの曲に、テタの強烈な泣き節がよく映えました。
「恋は水色」をカヴァーしているところなどにも、
センチメンタル好きのアンゴラ人の好みがよく表れているといえます。

そんな人気沸騰のさなかの74年にソロとして独立し、
ンゴラからシングル曲をまとめた初のLP“TIA CHICA” をリリースします。
そして翌75年、ついに独立を達成した記念すべき年に、
独立レーベルCDA第1弾アルバムとして、“INDEPENDENCIA” を出し、
自由を獲得したアンゴラ人民の喜びを体現するかのように大ヒットとなりました。

アルバム1曲目が、独立運動の主導権を争った二派の
“F.N.L.A. M.P.L.A.” というタイトルなのは象徴的でしたが、
皮肉にも両者は独立直後か再び敵対し合い、内戦へと突入します。
本作はそのはざまに残された記念碑的作品ともなったわけですが、
テタは隣国コンゴ民主共和国のキンシャサへ脱出し、
タクシー運転手をしながら、フランコのO・K・ジャズでも歌ったりしていたようです。
そして76年にはドイツへ、さらに78年にはフランスへ亡命し、
テタはパリで89年まで望郷の歌を歌い続けながら、
国外に逃れたアンゴラ人のシンボリックな歌手として愛され続けました。

“INDEPENDENCIA” が突然フランスからCD化されたのには、驚きました。
この頃のアンゴラ盤LPが、オリジナルのままCD化されるのはめったにないことで、
ポルトガル以外のインターナショナルなマーケットでは、これが初でしょう。
見開きジャケットも、オリジナルのままに再現されています。

ちなみにライナーには、本作が初LPと記されていて、
今月号の『レコード・コレクターズ』の記事にも「テタ・ランドの初LP」と書いてしまったんですが、
シングル曲をまとめたLPが先に出ているので、初LPは誤りでした。
ここにお詫びして、訂正させていただきます。

Teta Lando "INDEPENDENCIA" Facon FAN34652 (1975)
Teta Lágrimas "LETRA CHORADA: HOMENAGEM A TETA LANDO" Teta Lágrimas no number (2010)
África Show "MEMÓRIAS" Rádio Nacional De Angola no number
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